大切な家族やご先祖様の為に
お墓やお仏壇に向かって合掌している人が多いと思います。
実は私たちがいくら拝み願っても
全く供養にならないと知ったらショックですよね?
浄土真宗の教えでは、死んだ人に対して
供養や成仏させることをしない
という考えがあります。
仏教的な考えを含めながら
どういうことか見ていきましょう。
(あわせて読みたい記事)
⇩
お仏壇のご飯のお供えは炊き立てを毎日?本願寺派と大谷派で作法が違う?
クリックして好きな場所へ移動
お墓・仏壇に死んだ人が宿っている??
たくさんの人がこんな風におもっているのではないでしょうか?
■ご先祖を実体的に考えていて、
ご先祖の霊魂の様なものが、墓やお仏壇に入っていてる。
■しかも、その霊魂は生きていた時と
同じ様に意志や感情を持っている。
■墓やお仏壇は、そんな先祖の霊を、
生きている者がおそれ敬い、慰めるために祀る所。
どうでしたか?
お墓やお仏壇の事を
こんな感じで考えている人が多いと思います。
しかし、仏教の考え方は違います。
実は固定的な実体としての
霊魂を否定するのが仏教の考え方です。
浄土真宗でも人間が思い浮かべるような
幽霊・お化け・魂といったものを否定しています。
なので、仏教的・浄土真宗的には
お墓・お仏壇といった場所には
亡くなった人はいないと考えます。
これまでお墓やお仏壇にご先祖様や
亡くなった家族が入っているとばかり思い、
感謝や供養の念を込めて手を合わせている人も多く
いると思いますが、
実は浄土真宗の根本的な教えからすれば
間違った考えということになります。
実際にお寺に通っているお年寄りでさえ
毎日死んだ人の供養の為に手を合わせている
という人がいるので、なかなか根深い問題です…。
人間には死んだ人を成仏させる霊能力はない
当サイト管理人は
個人的には怖い話とかけっこう好きです。
テレビを見てても、
心霊スポットなどをめぐった時に
タレントやスタッフにとりついた霊を
霊能力者の人が
「え~いっ!」
と言って除霊したり、
お炊き上げなどをして供養するシーンなども
よくありますね。
あのような能力が本当かどうかは別として、
お寺のご住職さんにも同じような
霊能力や超能力があるのかと言うと違います。
実際に、
浄土真宗のご院家(ごいんげ)さん本人も法話の中で、
俗習や固定観念から
「供養してください」
「成仏させてください」
と頼んでくる人がいるので
その都度、正しい教義をお伝えしている
とおっしゃっていました。
実際に門徒(もんと=浄土真宗の檀家)の人でも
死んだ家族を思うあまりに
「供養・成仏」
といった言葉を使ってしまうのでしょうね?
浄土真宗では死んだ人はそのあとどうなる?
浄土真宗というのは
「南無阿弥陀仏」と唱えればただちに
阿弥陀如来の救いにあう
という教えの通り、亡くなった人は
すぐに極楽浄土へ生まれ還るとされています。
厳しい修行や戒律の無い宗派なので、
どんな人も信心ひとつで救われる
という教えです。
つまり、
死んだ人はすぐに極楽浄土へ行く
ということです。
苦しみ・痛み・悲しみ・怒り・飢え
とは無縁の世界です。
浄土真宗的にはこの世の方が
よっぽどハードであるということですね…
生きている人間が死んだ人を供養できない理由
先ほどお話した通り、
とっくに極楽浄土にいる人を
成仏させたり、供養したりする必要なんてないですよね?
しかも、生きている以上
私達は煩悩だらけの凡夫(ぼんぶ)であります。
「煩悩=欲」ですが、欲があってこその人間です。
そんな私達が「供養・成仏」させて
迷いのない悟りの世界へ死んだ人を導く力が…
あるわけありませんよね。
結局、導く力があるのは阿弥陀如来だけという教えです。
そんな阿弥陀如来を信じてお念仏することが
「信心ひとつで救われる」という意味です。
亡くなった人は私達が仏縁にあう事を願って
いつも働きかけてくれていると考えられています。
浄土真宗で手を合わせる対象は阿弥陀如来だけ
浄土真宗では、合掌の対象は阿弥陀如来だけです。
なので、お墓・お仏壇で私たちが合掌するのも
本来の意味としては
ご先祖が還ったお浄土を偲びつつ
阿弥陀如来に手を合わせる
というとこになります。
阿弥陀如来に手を合わせることが
ご先祖や亡くなった家族を
敬い・感謝する事に繋がるという事です。
まとめ
・お墓・お仏壇にはご先祖や亡くなった人はいない
・生きている人間には供養したり成仏させる力はない
・救ってくれるのは阿弥陀如来の力だけ
・お墓やお仏壇に合掌するのは
ご先祖や亡くなった人ではなく、阿弥陀如来が対象
以上の事が浄土真宗でよく言われている教えです。
このことを少し意識して
お墓・お仏壇参りをしてみてはいかがでしょうか?
(あわせて読みたい記事)
⇩
お仏壇にお水やお茶のお供えは間違い?湯呑やコップは使わない?