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野球好きな明治の文学者は?柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺はうその句だった?

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

有名な俳句ですが、実は作者を知らないという
方が多かったりします。

この方は、野球が好きで、今でも使われている
野球用語の生みの親です!

秋になるとよく思い出されるこの句は、誰もが
見たことある、国語の教科書に載っていた
あの人物でした!

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作者って誰??

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出典:3.bp.blogspot.com

この方は野球愛好者であった

事もよく知られています。

生涯で20万を超える句を詠んだと言われる中で

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」

の句は、数ある作品の中でも最も有名な句で、

芭蕉の句の

「古池や蛙飛び込む水の音」

と並んで俳句の代名詞として広く親しまれています。

横顔の写真ばかりが紹介されるその人とは、

 

 

 

 

 

正岡子規(まさおかしき)でした!

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出典:4.bp.blogspot.com

 

日本の近代文学に多大な影響を及ぼした
明治時代を代表する文学者のひとりです!

 

なぜ横顔の写真ばかりが有名??

 

諸説ありますが、

1・子規の弟子であった
河東碧梧桐の著書に、

子規は目と目がとても離れていた

という記述が出てきて、
それを気にして子規は横顔を
撮らせてのか??と推測‥。

 

2・子規は、結核を患っていた為、
脊髄カリエスの為に背筋を伸ばすことが
出来ず、極端に前かがみになっている。

その苦痛に耐えている姿は、

子規のダンディズム
からは自認できず

結果横を向いている写真
を撮ったのであろうっ‥

 

といった、あくまでも推測の域を脱していない
ものの、当時の子規の様子が横顔の写真から
伺われます。

子規は「柿」大好き人間だった!

 

柿の句で今は有名な正岡子規ですが、

1901年4月号掲載の「くだもの」(子規の随筆)によると、

漢詩にも、和歌にも、「奈良」「柿」
を配合した作品が無い!

と気づき、新しい配合を見つけた!と喜んだそうです。

そんな子規は、学生時代から大の柿好きで、
樽柿(酒樽に渋柿を詰めて、渋を抜いたもの)を
一度に7・8個食べる程でした。

他にも多くの柿を題材にした句を読んでいて、

「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」

「渋柿やあら壁つづく奈良の町」

「渋柿や古寺多き奈良の町」

などの句を続けて作りました。

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出典:2.bp.blogspot.com

ちなみに、2005年全国果樹研究連合会は、
10月26日を子規が

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」

を読んだ日として、

「柿の日」

として制定しています。

 

 

実は、法隆寺で柿を食べてはいない!?

 

先ほどにも出てきた子規の随筆

「くだもの」

によると、奈良の下宿先で、
下女が持ってきた御所柿を食べているとき、
折から初夜を告げる

東大寺の釣鐘の音

が響いたとこを記しています。

しかし、この時には

「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」

として柿の句にはせず、
翌日訪れた法隆寺に柿を配合した。
さらに、
子規が法隆寺を訪ねた当日は雨天だったため、
この句は実際の出来事を読んだものではなく、

法隆寺に関する
フィクションの句であると考えられています。

そして、
当時の子規の病状(結核)から考えると、
実際に法隆寺を参詣したこと自体を疑問視
する声もあります。

以上の事を踏まえると、
実際に法隆寺で柿を食べながら
鐘を聴いたという句ではなさそうです。

子規の頭の中で、
想像された情景を句に詠んだのでしょうか‥?

 

柿も好きだけど野球も好き!

 

まだまだ意外な事実が隠されていました!

正岡子規は明治初期に日本で野球が紹介されて
間もない頃からの野球愛好者でした。

以外にスポーツマンだったんですね!?

ちなみにポジションは

「捕手!」

でした!

ちなみに、正岡子規は
現在の野球用語の産みの親なんですよ!

「打者」

「走者」

「四球」

「直球」

「飛球」

などがあります。

なんと、子規の没後100年の
平成14年に野球殿堂入りも果たします!

 

晩年は結核との闘い

 

スポーツを愛して俳句三昧だった
子規に病魔が襲います。

1899年の明治32年の夏以降は、
座る事さえ困難になり、約三年間は
寝たきりだったそうです。

それでも尚、俳句への情熱は尽きず、
結核を患って吐血しても、

「血を吐くまで鳴き続ける鳥」

という意味を込めて、

「ほととぎす(子規)」

を雅号として使用するようになりました。

そして、

明治35年9月19日 34歳の若さで亡くなりました。

 

まとめ

 

正岡子規の姿を国語の教科書でしか
見たことが無かった方には、
意外な面が沢山あったと思います。

私も、野球が好きだとは知りませんでしたし、
若いときにはスポーツをしたり、
仲間とワイワイしていたのかと思うと、
正岡子規も短い人生の中で、精一杯青春を
楽しんだのだろうなと感じました。

大の柿好き、大の野球好き、

正岡子規を知ってみれば、俳句も身近に感じることが
できますね?

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