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歴史

徳川家康が西本願寺と東本願寺を分けた?本願寺派と大谷派に分かれた理由とは?

浄土真宗・本願寺派(お西)
真宗・大谷派(お東)

とよく言いますが、この二つは
もともと一つの「本願寺」を総本山とした
浄土真宗の大きな1つの教団でした。

今では同じ京都に
「西本願寺」
「東本願寺」の2つが存在していて、
門徒(信者)も2つに分かれています。

これを分けた原因は1602年までさかのぼる
徳川家康の策略が原因だったのです!

この徳川家康のお話しの前に
織田信長と豊臣秀吉との前置きがありますので
合わせてどうぞ!
   
1・織田信長と本願寺・顕如の戦いとは?

2・西本願寺を京都に建てたのは豊臣秀吉?

 

石山合戦後、隠居していた長男・教如

第11代目・顕如(けんにょ)と共に
元亀元年(1570年)から石山合戦で
11年にわたって織田信長を相手に戦った
長男・教如(きょうにょ)ですが、
(石山本願寺を信長に渡さない闘い=石山合戦)

教如は1570年の当時およそ13歳という年齢で
それから約11年もの長い間
父・顕如を助けて信長と戦ったといいます。

天正8年3月(1580)信長との和解策をのんで
終戦したのち、
父・顕如は和歌山の鷺森御坊へ隠居しますが、

長男・教如は和解策には応じず、
徹底抗戦を主張して、
父・顕如から義絶されてしまいます。

親子で信長に対する姿勢に意見が割れました。

長男・教如は、父が信長との和解策を受け入れて
隠居していった後も
5ヶ月間石山本願寺に籠城して信長に抵抗しますが、
近衛前久の説得で、とうとう石山本願寺を
信長に明け渡します。

(明け渡し直後に石山本願寺は謎の出火で
焼け落ちます)

その後は父・教如と不仲でしたが、
御陽成天皇の提案で仲が戻り、
父・顕如の元で寺務を補佐していました。

 

 

第12代門主・准如(じゅんにょ)

 

織田信長との長い闘いが終わり、
本能寺の変で信長が暗殺された後、

政権は豊臣秀吉に移りました。

自身の政策にとって
当時戦国最大の武装宗教勢力であった
本願寺の強さが無視できない
として

本願寺を支配下に置いて次々に移転させながら
土地の整備に利用しました。

本願寺を支配下に置く為に、
京都へ本願寺を移したのは1591年。
(現在の西本願寺)

翌年に11代目の顕如が亡くなったため、
顕如の遺言に沿って正式に3男の
第12代門主の准如(じゅんにょ)
が秀吉の命令により、
浄土真宗・本願寺派一門を束ねる
形で収まりをみせていました。

(一度長男の教如が第12代目を継いだが
先代・顕如との確執があったことから
顕如派から「3男・准如を門主に!」
という強い説得が秀吉にありました)

 

秀吉から徳川家康へ時代が移ると‥

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出典:3.bp.blogspot.com

慶長3年(1598)秀吉が亡くなり、
その後、徳川家康が天下を握りました。

そして秀吉の死後、御陽成天皇の承諾を背景に
徳川家康は京都六条烏丸(からすま)に
四町地方の土地をお寺建立の為に
寄進しました。

当時、三男・准如が門主を勤める
浄土真宗・本願寺(京都七条堀川)の
一角にある堂舎を、六条烏丸へと移し、

慶長7年(1602)上野の妙安寺より、
「親鸞上人木造」を迎え
東本願寺が分立

この東本願寺に門首として迎えられたのは
他でもなく、
先代・顕如の長男である教如でした。

これによって、
第12代目門首・教如が誕生しました。
(真宗大谷派では門主ではなく「門首」

同じ時代に浄土真宗は2人の代12代目が
誕生したのです。

 

家康はなぜ東本願寺を建立させたのか?

 

信長との闘いで、先代の門主・顕如と
長男の教如の間に意見の対立があった為、
その影響から随分長い間
本願寺は内部分裂の危機にありました。

一説によりますと、顕如と教如の親子喧嘩からの
世継ぎ問題のように言われていますが、
そんなに単純なことではなさそうです。

徳川家康は若き日に三河一向一揆(本願寺勢力=一向宗)
で苦しめられた家康が本願寺勢力の弱体化を進める為
東西に分裂させたとか、

現在の大谷派の中の話によると、

「教如は、一度はその座に就いたはずの
本願寺の門主を退いてからも、
各地の門徒への布教活動を続けており、

本願寺教団の方は、
関ケ原の戦い以前から三男・准如を門主とするグループと
長男・教如を門主とするグループに分裂していた。

そのため、徳川家康の
東本願寺の寺領寄進は本願寺を分裂させるためと言うより、
元々内部分裂状態にあった本願寺教団
をうまく安定させた策である。」

という見解を示しています。

その他、
東西本願寺の分裂については、
戦国時代の大名に匹敵する力を本願寺が
持っていたため、それを警戒した家康が
分裂させて弱体化を図ったともいわれていますが、

素直に東本願寺へ移った教如派が
平和的に独立を果たしたため、
むしろ両本願寺が安定したとも言われています。

 

まとめ

 

それから長い間、両本願寺は代を変えながら
存続し続けて、

明治14年(1881)の6月25日に東本願寺の
教団の公式の宗派名を
「真宗大谷派」と定めます。

同じ浄土真宗ですが、仏壇・仏具の違いや、
仏飯の盛り方の違いという作法まで、
いろんな点が違います。
  

しかし、
西本願寺も東本願寺も
元をたどれば親鸞聖人がご先祖様
に当たる親戚どうしなのです。

大きな時代の流れに翻弄された
本願寺でしたが、時の権力者である
家康が東西にわかれる後押しをしたのは
驚きでしたね?

他にも浄土真宗には派閥がありますが、
主な派閥である本願寺派と大谷派が分立した
理由は以上のお話しが主な説となります。

※前回の信長と秀吉のお話しがまだの方は
こちらをあわせてどうぞ!
     
1・織田信長と本願寺・顕如の戦いとは?

2・西本願寺を京都に建てたのは豊臣秀吉?