歴史

織田信長と本願寺・顕如の戦いとは?浄土真宗・一向宗の歴史

浄土真宗・宗祖である親鸞聖人から数えて
11代目にあたる本願寺の門主
「顕如(けんにょ)」
の生きた時代は、まさに戦国時代でした。

当時の本願寺の規模や勢力は、
時の権力者にも恐れられるほどだった
のですが、

信長はなぜ本願寺に攻め入ったのでしょう?
武将と僧侶達の長い闘いをご紹介します。

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戦国時代の浄土真宗一門は武装勢力だった?

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浄土真宗11代目の門主である顕如(けんにょ)
が生まれたのは1543年1月7日で、
その父親は第10代門主である
証如(しょうにょ・1516~1554)でした。

この頃は、大阪にある石山本願寺が
浄土真宗の総本山で、
「一向宗」と呼ばれた本願寺は、
その寺の造りも
城に匹敵するほどの規模でした。

その本願寺周辺には寺内町が形成されて、
寺内町を中心に大きく発展しました。

 

通常の宗教では、僧侶などが信者に対して
救いを施すのに対して、
一向宗では、僧侶ではなくても
信者であれば、人々に対して

救いを行う事を認めていた事からも、
「南無阿弥陀仏」と唱える信者の団結力は
強く、
不満を持つ人々と共に「一向一揆」
と呼ばれる反乱も起こした為、
徳川家康上杉謙信などの多数の大名が
一向宗の禁教令を出すほど、
本願寺の脅威は時の権力者達に
恐れられていました。

本願寺は権力者との戦略結婚で力をつけた?

本願寺教団としては、十代目の父・証如
が進めてきた門徒による「一向一揆」
を掌握する一方で、
細川家や京都の公家(くげ)衆との
親戚関係を深める作戦を進めていました。

そして、経済的・軍事的な要所である
大阪の石山本願寺を拠点として、
主に都や皇居に近い地域を中心に
本願寺派の寺を配置して
大名に匹敵する権力を持ち、最盛期を
迎えていました。

織田信長は本願寺にやりたい放題!

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1568年、織田信長が将軍・足利義昭の
家来であるがごとく付き添って京の都へ
乗り込んで来ると、
当初の本願寺は、織田信長に従う姿勢を
見せました。

本願寺11代目の顕如が自ら織田信長に
対して挨拶をして、
織田信長から5000貫の軍資金を求められても
(今の金額で言うと、1億円弱!)
すぐに応じるほどの従いっぷりでした。

しかし、
織田信長からの要求はどんどん追加され、

・浄土真宗(一向宗)の信者の動きの
報告義務!

・本願寺として命令を出す際には、織田信長の
事前許可が必要!

 

・他の大名家との交渉は禁止!

そしてとうとう、

大阪の石山本願寺の明け渡し

を要求してきたのです!

顕如は信長に反旗をひるがえす

総本山を織田信長に明け渡してしまえば
仏教の灯火が途絶えてしまうと、
本願寺の顕如は織田信長と戦う事を
選びます。

そして、各地の一向宗にこんな激を
飛ばしました。

「仏法の灯火を守る為
織田家と戦え 従わぬものは破門する」

そして、ついに1570年の9月
本願寺と織田信長は交戦状態に入りました!

信長が石山本願寺を欲しがった理由は?

実はこの頃、織田信長は将軍である
足利義昭とも
仲が悪い状態になっていました。

その為、1571年頃には足利義昭からも
信長討伐の命令が本願寺に届きました。

しかし、なかなか決着がつかない
この戦いは、元亀元年1570年から
11年もの間繰り広げられました。

この信長と本願寺の戦いが

石山合戦

と言われます。

でも、そもそもの戦いの原因は、
大阪の石山本願寺の明け渡しという
無理難題が発端だったのですが、

織田信長は、11年もあきらめずに
石山本願寺にこだわって戦った理由は
一体何だったのでしょうか??

 

それは、大阪の石山の要塞化した
場所を織田信長は拠点としたかった
からです。

 

そして、本願寺の勢力が天下統一の障壁に
なると考えた為です。
信長にとっては、自由交易によって
経済発展した寺内町の存在も軽視できなく
なっていました。

石山本願寺があったのは、現在の大阪付近
にあたり、当時そこは四方を河川に
囲まれた天然の要塞でした。

なので、信長はそこに政治的拠点をつくる
べく、石山本願寺の追い出しにかかった
というわけです。

信長の執拗な攻めと強い本願寺勢力

実は織田信長以前にも、
他の武将から石山本願寺は何度も
攻撃を受けていました。

しかし、小高い山や、川が多く、
守りに適した土地であり、
攻めにくい構造になっていたため、
戦いには有利な拠点でした。

しかし、信長はあの手この手で
11年もの間、本願寺を落とすべく、
戦いをいどむのですが、

本願寺には水軍からの援助もあり、
戦いの手助けや、物資の
調達など、地形を生かした様々な助けがありました。

各地の門徒も、これに奮起して
一向一揆を起こしました。

こうした一向一揆を制圧したのちに
信長は石山本山へ迫ります。
戦いの末に本願寺と一時的に
和解をしましたが(信長から申し出)
再び戦乱に突入‥。

長島一向一揆では、織田群が惨敗、
多大な犠牲を出しながらも、
二度、三度と長島の一揆を攻撃して
ようやく鎮圧。すると今度は本願寺の顕如から和解を
申し出ました。
(しかし、この時顕如は和歌山の鉄砲集団
である雑賀衆に加え、足利義昭と
毛利輝元と手を結び、再び信長との
戦いの準備をするのです)

ついに決着!

勝敗の決め手は、本願寺へ物資の補給
を行っていた毛利水軍を信長が
破った事でした。

こうして本願寺では供給が途絶え、
事実上の兵糧攻めにあい、

ここで、顕如は本当に降参します。

本願寺を去った顕如は和歌山の
本願寺鷺森別院
(ほんがんじさぎのもりべついん)へ
隠居します。

一部の門徒が信長に石山本山を明け渡すことを
強く拒み、顕如の長男・教如はそれに同調して
信長に抵抗して石山本願寺に占拠しつづけた
のです。

しかし、その後の
顕如と信長の礼状のやり取りや、
世の中の情勢、まわりの説得等に
ついに長男の教如も正式に信長へ
石山本願寺の明け渡しをしたのでした。

まとめ

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戦国時代のお坊さんは布教活動をしたり、
お経をお勤めしたりするような穏やかな
イメージではなく、

手に武器を持ち、戦国大名と手を組み
自分の領土を守る為に戦っていたんですね!

この石山合戦のお話しには続きがあり、
ようやく11年の長い闘いで手に入れた
石山本願寺ですが、織田信長の手に
わたった直後に出火して、
三日三晩燃え続けたそうです。

たいまつの火が燃え移ったとか、
退去を快く思わない教如側が火をつけた
とか‥。

真相は誰にもわかりませんが、

「人生50年‥」と言った織田信長の言葉が
ありますが、石山本願寺を手に入れる為に11年も
かかり、天下統一の為とはいえ、
本当はそんなにも長い年月は
かけたくなかったでしょうね??

そして、
その後の浄土真宗・本願寺がどうなっっていったかは
次の回にお話ししたいと思います。
 
豊臣秀吉へと続く浄土真宗のお話し

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