天皇家は神を祀ると同時に仏教も信仰していた歴史がありました。
実は天皇の葬儀も以前は仏式で行われていたんです。
では、
天皇家がなぜ仏教を切り捨てて完全に神道になったのか?
いつのタイミングで改宗したのか?
その経緯や、当時何が起きたのかを
わかりやすくお話したいと思います!
奈良時代「聖武天皇」から仏教式の葬儀がスタート
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538年の仏教伝来から遅れること約200年後、
奈良時代には日本の仏教は大きく普及して。
数々のお寺・仏像が造られました。
そんな時代の当時の天皇は、
第45代聖武天皇(しょうむてんのう701~756)です。
有名な天皇の1人ですね。
そんな仏教が飛躍的に普及した時代に、
それまで神式で祭祀を行っていた天皇家に
「仏教」が大きく取り入れられました。
実は、聖武天皇から4代さかのぼった
第41代持統天皇(じとうてんのう645~702)
の葬儀では、お寺で読経が行われていたことから、
すでに天皇家に仏教が深く取り入れられていた
事がわかります。
聖武天皇は、当時24歳で天皇として即位し、
不安定な世の中を仏教の力で救おうとして、
奈良の東大寺・大仏を造った人物です。
仏教で世の中を治めようとした
信仰心の厚い聖武天皇の時代から、
天皇家の葬儀は仏式によって執り行われるようになりました。
天皇の葬儀は聖武天皇~孝明天皇までずっと仏式だった
奈良時代の第45代聖武天皇から続いた仏式の葬儀は
その後長い間続きます。
第56代清和天皇(せいわてんのう850~880)
に至っては、27歳で退位した後
出家して仏門に入り、念珠を手にかけて火葬されたと言われます。
こうした仏式の葬儀は江戸時代後期の
第121代孝明天皇(こうめいてんのう1831~1867)
まで続きました。
およそ1000年もの間にわたって
歴代天皇82人の葬儀は仏式で行われていたことになります。
天皇の葬儀やお墓を管理する有名なお寺「泉涌寺」
天皇家ゆかりの寺として有名なのは、
歴代天皇の葬儀を執り行った
京都・東山の泉涌寺(せんにゅうじ)です。
泉涌寺が歴代天皇の葬儀やお墓を管理するようになったのは
第87代四条天皇(しじょうてんのう1231~1242)
の葬儀を行ったのがきっかけで、
室町時代・前期には
北朝4代後光厳天皇(ごこうごんてんのう1338~1374)
が亡くなった後に泉涌寺で葬儀・火葬され、
遺骨は深草十二帝陵とされる「法華堂」に収められています。
江戸時代には、
第108代後水尾天皇(ごみずのおてんのう 1596~1680)
が亡くなった後、泉涌寺内の月輪陵に葬られています。
以降、泉涌寺は後水尾天皇から14代以降の
天皇や女院の墓所として営まれることになります。
(泉涌寺・月輪陵に祀られる天皇↓)
幕末の
第121代孝明天皇(こうめいてんのう 1831~1867)
(↑明治天皇の父)
が亡くなった際も泉涌寺で葬儀が行われましたが、
この孝明天皇を最後に、
仏式による天皇の葬儀は終わり、
泉涌寺もその役目を終える事になります。
実は天皇家に「仏間」があった
ひと昔前の日本では、
「神」と外来の「仏」が
それぞれの領域を確保しつつも共存していました。
8世紀の日本では、
神社に付属して寺院が建てられ、神前で読経が行われたりしています。
このような神仏習合の時代は平安時代から江戸時代まで長く続きました。
そして、それは天皇家も同じでした。
天皇家でも神と仏は同時に祀られていて、
京都御所の「お黒戸」と呼ばれる部屋には
歴代天皇の御尊牌(御位牌)が置かれ、
女官らが仏式で奉仕していました。
一方、
平安時代以降からは皇霊に対する祭祀が
神祇官の白川家や吉田家によって
神式でお祀りされていたりと、
長い間、天皇家の宗教儀式は
神式と仏式の両方で細々と行われていました。
天皇家が完全に「神道」になったのは明治時代から
第121代孝明天皇(こうめいてんのう1831~1867)
が亡くなった後、
「明治維新(めいじいしん)」
という大きな政治体制の改革によって
それまでの経済・政治・宗教を含めた様々な事柄がガラリと変わる時代に突入します。
第122代明治天皇(めいじてんのう1852~1912)
が即位し、
政治は徳川幕府から天皇に変換され、
江戸時代が終わり、明治時代がスタートします。
(明治天皇↓)
時代が明治に変わると、日本人の生活は西洋文化を
積極的に取り入れたものに変わり、ぐっと近代化していきました。
そして、明治時代幕開けは宗教にとっても大きなポイントとなります。
天皇を中心とした国家をつくる為に
明治政府は「宗教」を利用したのです。
「神仏共存」という伝統的なスタイルを変える
大きな政策を明治政府が出しました。
それは、1868年に出された
「神仏分離政策(しんぶつぶんりせいさく)」
です。
神は神、仏は仏
といった具合に引き裂くような政策を取り入れたのです。
これによって、事実上
「神道」と「仏教」が対立するような関係に置き換えられてしまいました。
神仏分離政策の目的は?天皇は神様?
この神仏分離政策(令)の目的は、
国家と国民を統一させるために
1つの神を信仰させる
という作戦でした。
天皇家の祖先を辿っていくと、
初代神武天皇(じんむてんのう紀元前711~紀元前585)
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まで遡ることができますが、
これって、イエス・キリストやお釈迦様よりも
天皇家の歴史の方が古いということになります。
さすがにこの時代のお話は「神話」のようなレベルですが、
「古事記」や「日本書紀」で初代天皇とされている人物です。
そんな天皇家は世界最古の家柄であり、
その始まりを調べていくうちに
「天照大神(あまてらすおおみかみ)」
にたどり着くから驚きです!
(この話はまたの機会にまとめたいと思いますが…)
明治政府は、そんな天皇の地位を多いに利用して、
国民をまとめやすくするために
「日本の宗教は「神道」ですよ!」
「天皇家も「神道」を信仰していますよ!」
といったぐあいに、
天皇を国家神道の「象徴」として祭り上げました。
イギリスなどの「王」による体制を真似ることで、
天皇の地位を、それまでの幕府よりも上にする狙いもあります。
そして、日本の宗教は「神道」だと宣言し、
天皇は「神道の教祖」かのように明治政府は位置づけたのでした。
これ以降、
天皇家は完全に神道を信仰するようになり、
明治維新の「神仏分離政策」は天皇家から仏教を排除する事になりました。
まとめ
天皇家が仏教を取り入れた歴史は
奈良時代頃から始まり、江戸時代まで続きました。
1868年の明治時代スタートに出された
「神仏分離令」を機に、
天皇家は完全に「神道」だけを信仰するようになります。
天皇家の公の仏教信仰が終わる分岐点ですね。
これらは当時の明治天皇が16歳ごろの出来事でした。
600年あまりにも続いた泉涌寺との関係も終わり、
お黒戸にあった御尊牌(御位牌)も宮中から出され、
泉涌寺へ移動されることになります。
日本各地では明治政府の強引な宗教政策で混乱が起き、
「仏教徒は国の政策に反するので害を及ぼす」
とされ、弾圧を受ける事態も起きました。
当時の浄土真宗の門徒は、
仏教を擁護するために護法一揆を起こして戦っています。
そんな宗教的にも国家的にも混乱した明治時代は
日本の国が良い意味でも悪い意味でも大きく変わった時代でした。
天皇家の「完全神道化」は
政府が仕組んだ国家政策の大きな目玉だったと言えるでしょう。