現在の京都にある浄土真宗・西本願寺は
浄土真宗本願寺派の総本山ですが、
実はこの地に御堂を建立した人物が
豊臣秀吉でした。激しい攻撃をしてきた
信長とは全く逆の秀吉の柔軟な姿勢にはどんな
意味があったのでしょう?
長い信長との戦いの後、
時代と共に、浄土真宗はどんな運命を
辿ったのかお話しします。
あわせて読みたい前回の信長のお話し
⇩
織田信長と本願寺・顕如の戦いとは?浄土真宗・一向宗の歴史
信長との闘いが終わったその後
11年にも及ぶ石山合戦の後、
織田信長と
本願寺11代目門主・顕如(けんにょ)
との間で和解策がとられましたが、
これに従わずにまだ信長に抵抗したのが
顕如の長男である教如(きょうにょ)でした。
この親子の対立によって、
本願寺は
父・顕如と長男・教如の
2派に分かれてしまいました。
結局は長男の教如が石山本願寺を出ていくことで
内紛に決着がついたのですが、
この親子対立が後に浄土真宗の歴史を大きく
変えることになってしまいます。
大阪の石山本願寺を信長に明け渡した顕如は、
その後、
和歌山県の鷺森御坊に移り、
そこを本山として宗派を存続させました。
長男・教如と三男・准如の後継者争い
天正10年(1582)6月の本能寺の変で
信長が亡くなった後、
信長への姿勢をめぐって対立していた
父・顕如と長男・教如は
朝廷の仲介によって和解しました。
しかし
父・顕如は、
自身が進めた信長との和解策に反して
信長に抵抗を示した長男・教如を
「浄土真宗の内紛の核」
として摘発し、
3男である准如(じゅんにょ)を嫡子と決めました。
これがどういうことかと言うと、
父である浄土真宗11代目門主・顕如は
次の12代目を
長男ではなく3男へ譲る事を
事実上決めたということです。
その後、豊臣秀吉が信長に代わって世を
おさめ、本願寺もその政策に翻弄されることに
なっていきます。
本願寺(本山)の移転歴
度重なる本願寺の移転は、
時の権力者の思惑に翻弄されて
5か所にも及びます。
1・石山本願寺(大阪)1532~1580
(信長によって追い出され、鷺森御坊へ)
2・鷺森御坊(和歌山)1580~1583
(信長の死後、秀吉が貝塚へ移す)
3・貝塚御坊(大阪)1583~1585
(秀吉の寺地寄進によって天満へ)
4・天満本願寺(大阪)1585~1591
(再び秀吉の寄進で京都七条堀川へ)
5・京都本願寺(京都)1591~現在
(現在の西本願寺)
秀吉は、本願寺を転々と移動させました
これにはどういった策があったのでしょう??
本願寺をうまく利用した政策
秀吉がこんなにも本願寺を移転させたのは
なぜでしょう??
まず、天満への移転は、
この地を本願寺の寺内町として整備する為でした。
当時、火事で焼け落ちた石山本願寺跡に
大阪城を建てていた秀吉は、
近くにある
天満が水害の多い一帯だった為に、
本願寺を移転させて
整備に乗り出したということです。
天満に移転してから5年後、本願寺はまた移転
します。
理由は、京都の町づくりの一環としての移転
ですが、
寺内町は天満にそのまま残らせました。
自治特権と経済力によって本願寺を支えてきた
寺内町を切り離すことで、
秀吉は本願寺を自分の支配下に
置こうとしたのです。
本願寺の跡継ぎは誰??
本願寺がようやく京都に移った後の
文禄元年(1592)の11月
11代目門主・顕如が亡くなります。
顕如が亡くなると、豊臣秀吉の命令で
12代目門主に長男・教如を定めますが、
生前の父・顕如は3男に跡を継がせる意向を
示していたと、顕如の妻などからの訴えにより、
翌年には長男・教如は隠居させられ、
12代目の本願寺門主は
3男・准如(じゅんにょ)
に決定します。
どの時代にも後継者争いが絶えませんね?
まとめ
戦国時代を生き抜いた
11代目の顕如(けんにょ)の時代が終わりました。
初代である親鸞聖人(1173~1263)の血統を継ぐ
子孫が代々、浄土真宗の本願寺を継いで
仏灯を守り続けてきたのですが、
当時の教団が「群」として他の武将と対等に
戦っていたという事に驚きました。
僧侶も門徒も武器を持って戦い、門主はその指揮を
とるという、現代では考えられない
宗派の有り方です。
12代目に遺言通り3男の准如が決まりましたが、
この後、浄土真宗の歴史が大きく分かれます!
そのお話しは次の回に新たな将軍と共に
お話しさせていただきます。
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